
二代目
大正14年(1925年)、山口登が、実父である山口春吉の引退により山口組二代目を継承した。この時、山口組は まだ、大島組の系列組織だった。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。「山口組二代目親分相続披露宴」は、神戸市須磨区の料亭で行われた。披露宴には、主筋の大島組組長・大島秀吉を始め、大島組幹部や兵庫県議会議員、神戸市議会議員などが出席した。難波島之助が参謀格となった。
昭和4年(1929年)1月、山口登は、大嶋組への上納金をやめたために、大嶋秀吉から破門された。
昭和5年(1930年)3月、神戸市が兵庫区浜新町に中央卸売市場の建設を計画した。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。
同年5月、山口組の刺客・田尻春吉が大島組の川端勝次を射殺した。
同年8月7日、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、中央卸売市場建設予定地の近所であった。昭和7年(1932年)7月、山口登のいた須磨の待合が、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登本人は難を逃れた。抗争の末、山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、大島組から独立した。
それから、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名:森田良吉。父・春吉の兄弟分)を紹介された。
昭和9年(1934年)7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。この松風軒栄楽のマネージャーである庄村吉之助を引き抜き、彼を支配人に据えて、山口組興行部を作った。また、庄村の側に、若衆の笠種次を付けた。
同年8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。話し合いがこじれ乱闘となり、西田は殺害され、田尻も重傷を負った。その知らせを受けた田岡一雄(後の山口組三代目当時はまだ正式な若衆ではなかった。 )が、岡精義とともに、海員組合争議本部に乗り込み、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。
昭和9年(1934年)9月3日、 山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。
昭和9年(1934年)10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、山口登はこの東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京 浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。
昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。
同年10月、田岡一雄が 神戸刑務所から出所した
昭和11年(1936年)1月20日、山口登は、田岡一雄を二代目山口組の正式な若衆とした。
同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。
その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。
昭和12年(1937年)2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。田岡は同年2月27日に、懲役8年の実刑判決を受け、服役した。
昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。
まもなく、大長一雄は山口組を去った。
昭和15年(1940年)7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組の企画による映画出演の誓約書を書いたこの月、広沢虎造は九州巡業を行った後、下関・籠寅組の親分・保良浅之助を訪ね、下関の料亭「春帆楼」で接待を受けた。そこで、当時売り出し中だった女剣劇・不二洋子一座・大江美智子一座との映画競演を持ち掛けられた。広沢虎造は即決してしまった。ことに立腹した吉本せいが、山口登に調停を依頼してきた。山口登は、下関まで出向いて籠寅組の親分・保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。
同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。
同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。
昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。